カテゴリー:弁護士の日常   投稿者: 東野修次
12月6日付け日本経済新聞のコラム欄「春秋」が、前沖縄防衛局長の不適切発言についてコメントしている。
 
「あの暴言を明るみに出したメディアは正しかったのか」
 
コラムは、暴言が「オフレコ」の場で出されたことであるにもかかわらず記事にされたことを問題としている。「オフレコ」は、発言を記事にしない約束の上でのトークである。これが守られなかったことが問題となる。
私も、ずっとひっかかっている。約束ごとが守られるかというのは、法曹界に身を置く者にとって重要事である。しかし、それとは別に、「オフレコ」というシステムが危機に瀕することを危惧している。
報道機関が権力に対して取材していく場合に、政府公的見解や公式文書から記事にすることには限界がある。そのため、「夜討ち朝駆け」「ぶらさがり」という食いつき取材があり、また、記事にしないというオフレコ約束のもとに背景事情や途中経過について取材することで、真実に迫った記事が書けるのである。今回のオフレコ破りは、こういったオフレコシステムについて萎縮作用が生じさせ、今後政府や権力者側から情報が出にくくなるという事態になることが十分考えられる。マスコミが「権力をチェックする立場」であるとするならば、このような事態こそ恐れるべきである。私も以前、全国紙の一社が電話をかけてきて取材に応じ、「・・・その可能性があるかもしれないね」と言ったところ、「そうである」といった伝えられ方をして、組織が抗議したところ、記者が保身のため、「誰々がこう言った」と簡単に取材源まで明かしてしまった。同じとは言わないにしろ、同種の稚拙さを感じている。発言者の言葉尻をとらえたりせず、時によっては秘密を守るから取材ができるのである。世紀のウォーターゲート事件のニュースソースは、いまだに秘密にされている。約束は守られるから、次の約束がある。
マスコミは、「報道の公益性」をよく主張する。しかし、暴言を吐く一官僚の首をとばしたところで、今後基地問題で政府との交渉がスムーズになるだろうか。逆に、オフレコのシステムを通した「国民の知る権利」という公共性はどのように守られるのであろうか。今回の記事については、どこまで公共性があったのか、いまだに疑問に思っている。

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